どうして噛んでくれないのですか

日中、所用でデジカメを持って代官山に行く。珈琲屋で休憩。天気もいいので野ざらしの席は気持ちがいい。 隣に座っている人は小型のダックスフンドを連れている。「うーん、可愛いなぁ」と思って見ていると 向こうもソレに気づいたのか、目が合いしばしの間、沈黙が続く。この犬もわたしに興味を示しているようだ。 黒く潤んだ瞳を見ていると思わず首筋に噛み付きたい衝動に駆られる。 しかし、そういう衝動に駆られながらもわたしは人の目を気にしてしまい、 行動に移ることが出来ない。脳裏にはわたしに噛みつかれて尻尾を振りながら喜びに吠えるダックスと その様を見て「キャー!」と悲鳴をあげる飼い主の姿がちらつく。 仕方がないのでわたしは読書を開始する。それでも時折、ダックスに目をやると じっとコッチを見ている。その可愛らしい瞳は「お兄たま、どうして噛んでくれないのですか?お兄たま?」 と訴えかけているような気さえしてくる。わたしは迷った。大いに迷った。どうしようもなくなりうつむいた。 そして、わたしは自らに幻滅した。わたしは人の目、世間体、些細な常識を気にするあまりに 内なる衝動を握りつぶしたのである。 やがて隣の女性はダックスを連れ何処かへと去ってしまった。 「親父!珈琲だぁ!この店で一番上等な珈琲を持って来い!」 わたしは大声で注文すると浴びるように飲み、「As Time Goes By」 を口づさみヘベレケなった。いつの間に寝てしまったのだろう? やがて乾いた涙の中で目を覚ますとトレンチコートの襟を立て夜の中を渋谷へと向かった。 青くてちっちゃな小部屋へ。わたしの悲しみを癒してくれる小部屋へと。
 扉を開けると心地よいフルートの音が響いている。そして激しいタンバリンの音。 このリズムは非常に気持ちがいい。 帰り際、わたしのそういう寂しさを見抜いたのだろうか。魔王から「誕生日プレゼントをあげよう」と ルー・リードのDVDを頂戴する。思いもかけぬ出来事で非常にうれしい。 何度目の誕生日なのか、分からなくなりつつあるがもう400歳は突破している。