「浄のセクソロジー/南方熊楠」を購入。この本は以前も買ったのだが最近見当たらない上に、 古本屋で安く売っていたので買った。こういうことをしているのでこの前は皮ジャケットのポケットに 「道徳の系譜/ニーチェ」が2冊入っていた。自分でもポケットから出しながら「この子、馬鹿じゃないかしら」と 呆れたが、徐々に脳細胞が死んでいっていることを考えるとこの位のことは仕方がないのか。 まぁ、まだ自分の名前を忘れないだけ良し、としよう。「浄のセクソロジー」の扉を開けると男が少年を愛撫している絵が描いてあって 裏を読むと「古代ギリシアの壺に描かれた少年愛」と書かれている。同性愛は最終的には人間の基本存在理由である 「種の保存」を行えないので、それのみを取れば最も純粋な愛の形ではないか?と思ったことがあった。 まだ十代の頃、公園でタバコを吸って夜景を眺めていると黒人の男が声をかけてきた。ビールとタバコをおごってくれ、 話は盛り上がった。やがて男はわたしの身体を触り出した。その手つきはフレンドシップのそれではなかった。 わたしには残念ながら同性愛の気はなかったので彼の優しい誘いを断った。その時、ジェームス・ディーンの 「両方、愛せてこそ本物の人間だよ」という言葉が思い出され、わたしは限界まで努力したが無理であった。 その時、わたしは愛についての努力の限界を知った。同性愛者のほうでも同じことだろう。 愛とは頭で考えるものではないのだ。ゴーギャンの「ノアノア」の中にも、タヒチで現地の美しい青年に情欲を 起こしかけ、我に返るゴーギャンの話が載っている。やはり、事実は全く逆で愛が生じれば異性だろうが同性だろうが 何でも良いのである。性別は全く問題ではないのだ。わたしはあの夜、黒人のもとから離れ、街に入り込んだ後も 日本人のおじさんに誘惑された。「今日は一体どうなっているのだ?」と思ったことを憶えているが、もしもあの黒人が、 おじさんがとても美しくわたし好みの殿方だったら。あるいは恋に落ちていたかもしれないわ。
浄のセクソロジー/南方熊楠
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