モネ、ルノワールと印象派展

日中、楽器を鳴らしていい気分になっていると 部屋の外壁塗装の工事が始まり、どうにもならない心持ちになる。 これ以上、部屋にいることはまかりならんので「モネ、ルノワールと印象派展」を見に行く。 平日の日中であれば空いているだろうという計算も働いていた。 渋谷の街並もさすがに空いている。チケット売り場も並ぶこともなくすんなり中へ。 ところが中に入ると沢山の人が。ナニゆえに平日の日中にこんな場所に集っているのか! 一瞬、憤りを覚えるが、わが身を省みて平静を取り戻す。 わたしはルノワールはあまり興味がないのだが、常々、あの柔らかいタッチはどういうことだろう? と思っていた。それで人ごみを掻き分けて出来るだけ近くににじり寄り、色の境目を凝視した。 やはりぼんやりとしている。対象との距離はまだ30cmほどある。2cmくらいまで近づきたいのだが 状況がソレを許さない。それでも絵の具のナマナマしさと筆の動き具合は分かった。 100年以上前の絵なのに、さっき塗りつけたばかりのような印象を受ける。 人物の輪郭もあいまいで色を塗るのも筆を引く、というよりは筆を置いている、という感じである。 ところが3Mくらい距離をあけると全ての調和が取れていつものルノワールの絵になる。 不思議だが考えても分からないので「魔法」という言葉で済ます。 モネは「睡蓮」が3つほどある。それぞれの絵には年代差があり、タッチや色合いも微妙に違う。 わたしは風景画には一向に興奮することが出来ない。 逆にJ三郎は風景画を見ると異常に興奮する。これはもう性癖という他仕方がない。 なので、なんとなく見ていたが、 「どうしてこの人はこんなに睡蓮を描かなければならなかったのか?」という疑問が沸き起こる。 不思議だが考えても分からないので「業」という言葉で済ます。 いずれによ、モネもルノワールも「光」を描いているという点で一致している。 わたしの中を「美術史概要」が駆け巡る。 ”太陽光線の科学的知識が一般に普及することにより、時間の推移がもたらす光線の変化と人体の視覚 とコニャニャチワが絵画の中にも導入され、アッチとコッチでごっつんこ・・・」 結局、10分ほどで足早に見て周り会場を後にする。 帰り際、若者の有り余った精力で本屋、CD屋で散財する。